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吉田五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年[1] - 1993年[1])は、日本技術者で、キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者[2][3][4][5][6][7][8]

来歴

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広島県福山市出身[1][3][9]。小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で[7]、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして1917年上京[1][4][10]。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した[4][7][10]。この期の技術習得が実を結び、昭和の初めには映写機の修理、改良の域を脱し、製作にも手を伸ばしていた[11]。日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた土橋式の録音機は土橋武夫・土橋晴夫兄弟の製作した物であるが、再生機は吉田が中国上海で買って来た物が使われたという[3]。吉田は正規の技術者教育を受けたことのない映画機械職人で[8]、映画機材業界では名の知れた職人であったという[8]

この時期の映写機は全て外国製であったため、製品の買い付けや部品調達に上海に何度も足を運ぶ[1][12]。その折、アメリカ商人、ロイ・E・デレーから「お前の国には素晴らしい軍艦がある。あれだけの軍艦をつくるんだったら、この機械だってつくれないことはない」とからかわれ[4]、当時、20代の意気盛んな吉田は、「潜水艦でも何でもつくれるのに、あんなライカみたいにちっぽけなカメラをつくれない法はない」と奮起、これがカメラづくりの動機、出発点となる[1][3][4][11]。特に1932年に発売されたライカIIが、国産の「高級35ミリ精密カメラ」製作の動機になったといわれる[8]

吉田の狙いはライカとコンタックスであったが、当時の日本のカメラ製造技術は幼稚で[8]、世界に冠たるドイツの精密機械を向うに回し、当時の発展途上の技術でそれに立ち向かうのは蟷螂の斧に等しかった。吉田は工面して入手したカメラをばらし、中身の研究から始めた[4][1]、このような高級カメラをつくるためには、多額の資金が必要となる。吉田が創業の相手に選んだのが当時、山一證券外務員として株式で巨額の収益をあげていた義弟の内田三郎であった[8][10][11]。内田はカメラなどにはまったく興味がなかったが、証券の売買関係で知遇を得ていた鮎川義介の「資源の少ない我邦では、光学精密機械とか純度の高い化学工業が有望である」という事業観に影響され吉田の申し出を承諾した[8][12]。内田の立場からすれば国産の高級35ミリ精密カメラ開発は 既存の大資本との競合が少ない分野であり、今にいうベンチャービジネスとして市場進出の可能性があったと考えたといわれる[8]

こうして1933年11月、世界一の高級カメラ作りに情熱を燃やし、内田と共に東京市麻布区六本木(現在の東京都港区)六本木交差点近くの木造アパート竹皮屋ビル3階の一角に[4][13]、「精機光学研究所」を創立[4][5][7][13][14][15][16]。創業は二人のみによるもので[2][4][12]、研究所の命名者は吉田[11]、内田の知人・御手洗毅からも運営資金の一部を支援された[2]。発足後、所内をまとめるため、翌1934年に内田の大阪時代の部下・前田武男が入所。吉田はライカを分解解体し、中身を図面に興し、部品を調達するというやり方で学びとった。東京周辺にある旋盤加工や、ミーリング加工プレス加工鋳物絞り彫刻メッキレンズ研磨など、カメラ作りに必要な部品加工工場を片っ端から訪ね歩いた[17]

この時期の日本には、ドイツに見合うだけの技術力はなかったが、日本におけるカメラ作りがこうして始まったのである[17]。寝食を忘れて試作機を仕上げ[18]、同年、国産で初めての35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラ「Kwanon(カンノン)」を試作[4][7][13][15][19][20]。カンノンと名付けたのは、吉田が熱心な観音経信者であったからで[6]、小型カメラにKWANON、そのレンズにKASYAPA(カサパ:釈迦の弟子のひとりである迦葉に由来)という名を付けた[4][6][13][15][21]。キヤノンの社名は、このカンノンに由来するもの[4][5][6][15]。観音様の慈悲にあやかり、「世界で最高のカメラを創る夢を実現したい」という吉田の夢が社名の由来[18][22]。1934年、その「Kwanon(カンノン)」を『アサヒカメラ』6月号の広告に掲載、キャッチフレーズは「潜水艦伊号飛行機九二式、カメラはKwanon、皆世界一」という勇ましいものであった[6][8][11]。これら広告の図案も文案もすべて吉田がつくったという[23]。同年『アサヒカメラ』(6月、7月、9月号)と『月刊カメラ』9月号に計4回の広告を掲載した[8]

しかし、一向に製品は完成せず、内田に技術者不信がつのる。内田には技術内容が分からないため「精機光学研究所」に外部評価という手法を導入し「精機光学研究所」の近所にあった赤坂歩兵第1聯隊中隊長、山口一太郎陸軍大尉を技術指導に招く[8][10]。山口は陸軍光学兵器エキスパートだった[8]。吉田は山口と折り合いが悪く[12]、内田に使途不明金を追及された事件(後に濡れ衣と分かる)もあって[10]、1934年秋9月末[1]、吉田は僅か一年で研究所を去り[4][8]、東京・京橋区木挽町に吉田研究所を開く。当時国産ライカをつくった男として評判を得て、日活松竹大映といった大手映画会社の依頼により、ミッチェル、ベル&ハウエル、パルボ、コダック等の著名な外国製映画用撮影機材の改造、修理等を引き受け、空襲で焼け出されるまで営業を続たという[11]

その間、精機光学元社員・熊谷源二らが設立した光学精機(ヤシカ・現京セラの源流のひとつ)のニッポンカメラ開発に協力し完成品は海軍に採用された[24]。戦後は、アキハバラデパートで外商の売掛金の集金係として晩年まで働いていた。その頃にはカメラについて全く語ることはなかったといわれる[10]

精機光学研究所はその後、医師でもあった御手洗毅を中心に発展し1947年、キヤノンカメラと社名を変更(1969年キヤノン株式会社に変更)[22]、今日に至る[4][9][25][26]

なお、現在キヤノンが収蔵している「カンノンカメラ」は昭和30年代に大阪の中古カメラ店で発見されキヤノンに買い上げられたものであるが、吉田の手になるカメラに似ているものの、キヤノン社側からの問い合わせに対し、吉田は具体的な証拠を挙げて、自分の作ったボディーではない、と否定している(レンズは吉田のものだとしている)[4][10]

脚註

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  1. ^ a b c d e f g h 吉田五郎(よしだ・ごろう) (PDF) 広島県立福山誠之館高等学校同窓会
  2. ^ a b c #日本の創業者、p.94
  3. ^ a b c d #キヤノンの創業者、pp.63-81
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 1933-1936 キヤノン誕生の時代”. キヤノンカメラミュージアム. キヤノン. 2025年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  5. ^ a b c 菊地浩之 (2025年2月14日). “業界再編の系譜 カメラ技術を礎に飛躍した複合機・プリンター業界の再編史 キヤノンなど日本企業が高シェアを持つ”. 四季報オンライン. 東洋経済新報社. 2025年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  6. ^ a b c d e 過去の放送「学ぼう」シリーズ第3弾! 社名に学ぼう!! 特集 儲かり企業の社名のヒミツ”. がっちりマンデー!!. TBSテレビ (2009年1月18日). 2025年1月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  7. ^ a b c d e 大人の社会科見学 宮﨑香蓮の大人の社会科見学 キヤノンマーケティングジャパン株式会社」『東京新聞中日新聞東京本社、2020年8月12日。オリジナルの2025年10月31日時点におけるアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 森亮資第二次大戦前日本における35ミリ精密カメラの開発 (PDF) 技術と文明17巻2号(104) 日本産業技術史学会 J-STAGE 科学技術振興機構 pp.23–35
  9. ^ a b 第7回 吉田五郎(よしだ ごろう)[1900-1993] 《キヤノン(旧・精機光学研究所)の創設者の一人》”. 歴史から学ぶ「福山」郷土の偉人たち. エフエムふくやま. 2025年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g #国産カメラ開発物語、pp.26-52
  11. ^ a b c d e f #キヤノン史、pp.2-9
  12. ^ a b c d #カメラと戦争、pp.51-56
  13. ^ a b c d 小田切裕介 (2021年9月11日). “カメラブランドの由来、知ってる?「キヤノン」の名前は仏教と深〜いつながりがあった”. CAPA CAMERA WEB. ワン・パブリッシング. 2024年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  14. ^ #日本会社史総覧、p.1297
  15. ^ a b c d キヤノンのいまができるまで”. Canon. 2013年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月30日閲覧。
  16. ^ 設立趣意”. Canon. キヤノン財団. 2022年7月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  17. ^ a b #進化の経営史、pp.264-267
  18. ^ a b キヤノンがカメラに「カンノン」と名付けた理由は?”. 週刊BCN+. BCN (2017年2月1日). 2025年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  19. ^ ハンザ・キヤノン量産試作型 (別名、カンノンF型、ボディナンバー1078、ヘリコイドナンバー85、レンズ番号”6”または”9”)”. 産業技術史資料データベース. 国立科学博物館産業技術史資料情報センター. 2025年10月31日閲覧。
  20. ^ #日本会社史総覧、p.1297
  21. ^ ロゴの由来”. キヤノン. 2025年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月30日閲覧。
  22. ^ a b キヤノン創業者 御手洗毅氏、「世界一」を目指してこそ「世界一」は手にできる 連載:企業立志伝”. ビジネス+IT. SBクリエイティブ (2016年11月9日). 2025年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  23. ^ #キヤノンの創業者、pp.51、96-129
  24. ^ #クラシックカメラ専科、p.114
  25. ^ キヤノン御手洗毅社長「問題は工作機械だ」 1953年9月19日号で語ったドイツとの比較”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社 (2020年2月6日). 2025年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月31日閲覧。
  26. ^ キヤノン創業者「御手洗毅」は産婦人科医 打倒「ライカ」で見せた「メイド・イン・ジャパン」の意地”. デイリー新潮. 新潮社 (2022年1月2日). 2025年10月31日閲覧。

参考文献・ウェブサイト

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